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【し~なチャン便り 第66話】秋田の江戸時代~佐竹義宣のまちづくり②

前回(第65話)は江戸時代、久保田城下(現秋田市)の「侍のまち・内町(うちまち)」の今昔をお伝えしましたが、今回は町人地・外町(とまち)についてお話しを続けましょう。

秋田市中心部を流れる「旭川」。1604(慶長9)年、天下分け目の「関ケ原の戦い」のあと、秋田に転封(てんぽう。 国替え)された初代藩主・佐竹義宣は神明山(しんめいさん。現在の千秋公園)に城を築きます。同時に義宣は街の区画整理「町(まちわり。まちの区画整理)」に着手。旭川の東側を侍が住む「内町」、西側には町人が住む「外町」を配置しました。ここまでは前回、お伝えしましたね。

外町も、内町の建設と同時に進められ、1630年代には完成したと考えられています。

「特定の商品を独占販売できる特別な権利」が与えられた町を「家督(かとく)町」といい、例えば旧町名でいう「茶町(ちゃまち)」なんかはその代表例です。茶町はその名前の通り、代表的な家督商品はお茶で、そのほかに紙・綿などの荒物(雑貨類)を扱っていました。

ほかに分かりやすい例でいえば例えば「肴(さかな)町」。「上肴町」(大町地区)、「下肴町」(横町地区)があり、生魚・塩魚・干魚などを家督商品としていたんです。

現在も町名としてある「大町」。外町のうちで「大町」は商業の中心地として早くから整備され、大きな商家が集中していました…で、「大」町?。前にこのコラムで、お伝えしたことがありますが、エコール・ド・パリを代表する画家・藤田嗣治を秋田市に招き、大壁画「秋田の行事」を描かせた平野政吉さん…秋田市の豪商(米穀商)としても知られますが、政吉さんの家、さらにいくつかの大きな米倉もこのエリアにありました。平野さんはのちに、「秋田の行事」を収容するために美術館までつくります。実は「幻の美術館」というお話しもあるんですが…それはまた別の機会に。

さて外町は、北前船(きたまえぶね)が寄港し、物流の拠点となっていた土崎湊(港)から久保田城へ通じる「通町」(現在の通町商店街)の通りと、新屋・牛島方面から城下に通じる「馬口労町(ばくろうまち)」通りとの間に位置しています。

※【北前船とは】 江戸中期から明治にかけて、上方(大坂)と蝦夷地(北海道)を日本海航路で結んだ商船。

多くの旅人が行き交い、他藩主の参勤交代ルートでもあったこの道は、いわば「秋田藩の顔」です。

例えば北、青森・津軽藩からの『大名行列』一行は通町から入ってきて、さらに大町へと進んでいきます。まず、最初の通りである「通町通り」(現在は保戸野通町、大町地区)沿いは、建物を立派な2階建てにするよう命じられていました。「久保田城下一の大通り」として、「他藩の人の目に触れても恥ずかしくないような景観」として整えられた、といわれます。

写真は通町通りを行く「大名行列」(大正4年、佐竹公銅像除幕記念行列。油谷満夫さん提供)。この写真から、そのころの風景が想像できますよね。

この「通町通り」には、周辺の農村や土崎湊から野菜・薪・日用品などさまざまな商品が集まり、毎日、朝市が開かれていたそうです。また、酒田(山形)へとつながる「馬口労町」(旭南地区)には、名前の由来でもある「馬宿」が設置され、現在でいう交通ターミナルのような役割を果たしていました。毎年数回、この町では馬市が開かれ、馬の売買をする「馬喰(ばくろう)」と呼ばれる人たちが他藩からも集まり、数百頭の馬がいたという記録もあります。

江戸時代の秋田市にあった「外町」は、各町の特色や文化を持ち、それぞれが独自の役割を果たしていました。各町には名前の由来があり、それにちなんだ歴史、文化を持っていました。当時の町人たちの生活や思いが今に伝わっているものが数々あります。

外町文化…たくさんあるんですが、その中の大きな一つが「竿燈」です。竿燈は、江戸時代から続く伝統的な祭で、町人たち、主に外町の町人たちが主導して行われてきた、といいます。

東北三大祭りとして知られる「秋田の竿燈まつり」は8月3~6日ですが、外町の鎮守とされる日吉(ひえ)八幡神社では毎年1カ月前の7月「七夕祭」で、外町竿燈の妙技が披露されます。外町の竿燈は「町内竿燈」ともいわれますが、各町内の提灯にはそれぞれの「町紋」が描かれています(下写真は日吉八幡神社境内・七夕祭、2023年7月8日)。

町内や業種の象徴、風雅、長寿、祝福、子宝、豊作を意味する縁起物などがデザインされたもので、「町民の幸せを願う」という意味合いがあるんです。

短い秋田の夏。8月3日からは「秋田の竿燈まつり」が始まりました。竿燈が終わると、間もなくお盆。県内各地で「夏祭り」がにぎやかに開催されます。

(画・西村修)