秋田市出身の「昭和の国民的歌手」がいます。
東海林太郎(しょうじ・たろう 1898~1972年)さん。
丸いロイド眼鏡、燕尾服。直立不動の姿勢が特徴的でした。
「赤城の子守唄」「国境の町」などのヒット曲があり、NHK紅白歌合戦にも第1回を含めて計4回出演しています。流行歌手として初の紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章。日本歌手協会・初代会長も務めています。すごい人だった…あらためてそう思います。
子どものころからテレビの「モノマネ」番組が好きでした。昭和30~40年代に「モノマネ(される)」歌手としてベスト3に入っていたんじゃないかな(あくまで私見です…)。
現在、新しい文化施設「ミルハス」が建つ場所、つまり旧県民会館脇には顕彰会が設置した東海林さんの胸像がありましたが、2018年の施設解体に伴って市内の別施設に移設。その代わりに、秋田市は新しく「東海林太郎直立不動像(立像)」を、市文化創造館(同市千秋明徳町)西側の敷地に建てたんです。50代ごろの東海林さんをモデルに「丸眼鏡、燕尾服」そして直立不動の特徴的な姿が表現されてます。
(上の写真 かつて旧県民会館にあった胸像)
(写真2枚 新しくできた東海林太郎立像)
東海林さんは旧制秋田中(現秋田高)を卒業後、一度は音楽の道を志しましたが、父の反対で早稲田大に進学。当時の南満州鉄道(いわゆる、あの当時のエリート集団『満鉄』です…)に就職しても夢をあきらめきれず、35歳でプロ歌手になった人です。
太郎さん(親しみをこめて、そう呼ばせていただきます)は、「唄うサムライ」ともいわれました。
剣豪宮本武蔵の「一剣護民」にちなんで、座右の銘としたのが「一唱民楽(いっしょうみんらく)」。一つの歌で多くの人を楽しませ、心を和ませる━そんな意味が込められていたとか。マイクの周囲一尺四方が「自分のステージであり、自分を鍛える場」。自らの信条を崩すことなく、地方の小劇場、体育館でもそのスタイルを貫きました。
東京オリンピックのころからの懐メロブームで人気がブレイク。再び大舞台に引っ張り出され、数々の栄誉に輝きながら、昭和47年に亡くなりました。歌手になる夢を諦めず、貫いた歌手人生。歌に向かう姿は、まさに宮本武蔵のような「サムライ」でした。
レコードに吹き込む録音の前に、納得するまで何度も歌詞を毛筆で書いた、という太郎さん。
「歌の意味が知りたい。歌詞の後ろの魂を理解したいのです。歌は言葉が届かないと意味がない。最高の形で言葉を届けるには、それなりの覚悟がいる」
東京・神田 神保町の古本街に通い、歌詞の一つひとつの言葉、さらに歌の背景を完全に体にしみこませるために文献を読み説いた、という姿はまさに真剣勝負でした。
秋田市大町に「東海林太郎音楽館」があります。ここは、私が思うに日本でただ一つの、民間の手による貴重な東海林太郎記念館。太郎さんの貴重な資料がずらり展示され、彼の全貌がここで分かります。
太郎さんの生家は秋田市千秋矢留町。子どものころ、千秋公園の高台に行き、大きな木に登って、遠くに見える日本海(今は見えませんが…)に向かって歌を歌うのが日課だったそうです。
かつての生家の玄関がそのまま、この音楽館に移築されています。生家(秋田市千秋矢留町)の玄関先には牛乳箱が置かれていたことが古い写真から分かっており、それも忠実に再現されているんです。大好きな牛乳を飲む、子ども時代の東海林太郎さんの姿が歌とともに浮かんできます。