前回は市立中央図書館明徳館(きららとしょかん)の正門前にある「赤い靴」の母子像のお話をしました。
実は同図書館にはもうひとつ、あまり皆さんに知られていない(と思われる)像があるんです。それは「秋田ぼうや」の愛称で呼ばれている石こう像です。
目を伏せた少年の悲しげな表情が印象的な…、
この像は、チェコ・プラハ郊外にあるモニュメント「子供群像」の1体を型取りして作られたものです。
2000年夏、秋田市の女性たちが行っていた「チェコ・モニュメント建立を支援する会」が制作、「平和への願い」を込めて同館に寄託した「平和のシンボル」でもあります。
遠く離れたチェコの友人の呼び掛けに応え、秋田市の女性たちが支援に加わった「平和のモニュメント建立運動」。それはどのようなものだったのか、そして「秋田ぼうや」命名のわけは…
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チェコの首都プラハ中心部から北西約20キロに、82体の子供たちの銅像がある広大な公園があります。公園は、第2次大戦中にナチス・ドイツによって「抹殺」された人口約500人の小さな村「リディツェ」の跡地につくられました。
(上写真 プラハ郊外のリデッツエ村跡。82体の子供群像)
1939年、チェコはナチスドイツの圧政下にありました。ヒトラーは、秘密警察と情報部のトップでもあるSS(親衛隊)幹部を送り込み、恐怖政治を行っていました。
42年5月27日、英国の支援を受けたレジスタンスが、プラハでSS幹部を襲撃します。幹部は重傷を負って1週間後に死亡。激怒したヒトラーは徹底的な報復を指示、多くの市民が無実のまま次々に処刑されました。こうした中、リディツェ村は「見せしめ」に選ばれたんです。
「暗殺実行犯と関係した」との口実で「村の抹殺」命令が出されます。同6月9日から10日にかけて、男性は全て銃殺され、女性は国外の強制収容所へ。子供たちは母親と引き離されて別の収容所に送られました。多くの女性、子供たちは収容所で「ガス殺」された、といいます。わずか3日間で村は徹底的に焼き尽くされ、更地にされました。
今、プラハ郊外にある「82体」の子供群像は、犠牲になったこの村の、1歳から15歳の82人がモデルです。
「リディツェの『鎮魂の歴史』を後世に伝えたい」━そんな思いで、チェコの女性彫刻家マリエ・ウヒチローバさん=89年死去=20数年かけて等身大82体全ての石こう像を制作。長く保存できる「銅像化」に取り掛かったんですが、完成を見ることなく亡くなりました。
(上写真 マリエさんのアトリエにある愛用のデスク。プラハ)
マリエさんの遺志を継いで銅像化のための募金運動が始まります。プラハに住む親友の女性たちが「建立委員会」を結成。各国の友人たちに惨劇の起きた経緯を記したリポート、寄付を募る手紙を送ります。運動は世界中で報道され、続々と支援が寄せられました。
チェコの友人から知らせが届いた秋田市の女性たちが動きます。95年1月から「チェコ・モニュメント建立を支援する会」をつくり、「秋田発」で日本での募金活動を開始。それまで人前で訴えたことなどなかった女性たちでしたが、「仲間と共に、勇気を出して声を上げた」そうです。
彼女たちの活動が秋田魁新報で報道されると、それを読んだ大館(旧田代町)出身の彫刻家松田芳雄さんが資金だけでなく、制作でも協力を申し出ます。「銅像の中に『秋田生まれの子供』があってもいいはず」という思いで現地に赴き、マリエさんが制作していた石こう像の型を取り、秋田の地で銅像化する取り組みを行いました。
完成した銅像はついにチェコへ。さらに松田さんは型取りしたものからもう1体、石こう像も制作。像は、支援する人々からいつの間にか「秋田ぼうや」と呼ばれるようになり、運動のシンボルになったんです。
秋田の女性たちは日本各地で、開いた集会やイベントに「秋田ぼうや」を持参し、支援を訴え続けました。その呼び掛けは全国に広がり、約1300の団体・個人から600万円以上の寄付金が集まります。ドイツやオーストリアなど世界各国からの募金も合わせ、ついに82体の銅像のモニュメントがチェコに建ちました。2000年6月10日のことでした。
「秋田ぼうや」は同図書館で大切に保管されています。今から20年以上前、「モニュメント建造」を通じて「平和」を訴えた秋田の女性たち、「秋田ぼうや」は、その活動の「証(あかし)」です。
最後に、マリエさんが生前、いつも口にしていた言葉を紹介します。
「人間の最も素朴な本能の一つは、子供への限りない愛。この愛こそ人々を団結させ、戦争を防ぐ力を持っている」