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 【し~なチャン便り 第52話】まちなかフカボリ~千秋公園編⑥ 合格祈願ならココ ~学問の神様が2人!!

新型コロナウイルスに翻弄されながら、懸命に受験に立ち向かっている受験生たち。受験シーズンもいよいよ後半戦。追い込みのとき、です。

合格祈願、そして学問の神様といえば「菅原道真」。秋田市の菅原神社(同市八橋)をはじめ、県内各地で道真公をまつった神社が数多くあります。

でも、道真公はたぶん「秋田生まれ」じゃないですよね。そこで、今回紹介したいのは、千秋公園にいる秋田生まれの「学問の神様」、しかも2人がまつられている神社。

それは旧久保田城跡本丸にたつ彌高神社です。

神様の1人は平田篤胤(ひらたあつたね、1776~1843年)。もう1人は篤胤さんの門人でもある佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769~1850年)。篤胤さんが秋田市(現在の同市中通)出身、信淵さんが郡山村(現在の羽後町)出身です。

秋田県民歌(1930年)の3番の歌詞にも、「篤胤さんと信淵さん」が出てくるんですよ。

「篤胤 信淵(しんえん) 巨人の訓(おしえ) 久遠(くおん)に輝く北斗と高く~」

(作詞・倉田政嗣、補作詞・高野辰之、作曲・成田為三)

江戸時代後期、いずれも学問において大きな功績を残した2人でした。

篤胤さんは、荷田(かだ)春満(あずままろ)、賀茂真淵、本居宣長と共に「国学の四大人」と称された人。国学ばかりではなく、蘭学、医学、天文学など幅広く学問を究めて膨大な著書を残し、その博識で人々を魅了しました。その思想は農民、商人、武士、庶民にいたるまで、幅広く受け入れられていた、といいます。

また、信淵さんもすごい。篤胤さんと同時代に農学者、兵学者、農政家、医者として第一線で活躍しました。信淵さんの名声が江戸で一気に高まったのは「兵学(軍事研究)」において。火薬で走る新兵器『自走火船』を考案したことによるものでした。兵学のほか、農学者、医者としても超一流の人物だった信淵さんでしたが、47歳のときに7歳年下の篤胤さんと出会い、その並外れた優れた見識に魅せられて門人になったんです。

2人は人文科学者であり、自然科学者でもありました。つまり文系であり理系、受験生垂涎(すいぜん)の「二刀流」です。

受験シーズンになると、神社には合格祈願の参拝者が多く訪れる、というのも当然ですね。なんたって、文系・理系の学問の神様がダブルでいるんですから。その効果も2倍、いや2乗倍になっていくのでは。

さて…

では、なぜ神様2人がまつられているのか?

県教育史などの資料で調べてみました。

そもそも篤胤さんが生まれ故郷の秋田市で、神社にまつられたのは1981(明治14)年。明治天皇の勅使が同市手形にある篤胤さんの墓所(※秋田市内に篤胤さんの墓があるんです…)を参詣したことを機に、門人たちが「平田の神社を設けよう」と発案。まずは秋田市八橋の日吉(ひえ)八幡神社内に、彌高神社の前身である平田神社を建立しました。

1909(明治42)年、秋田県教育会が中心となって旧久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入・修繕した後、門人であった信淵さんを合祀、彌高神社と改称したんです。受験においてダブル効果の最強神社の誕生です。

1916(大正5)年に現在地へ移築され、3年後には「県社(旧制度の神社の社格の一つ)」になります。明治時代創建の神社ですが、社殿が江戸時代後期の建築であるため権現造りの形式です。

彌高神社は1982(昭和57)年、篤胤・信淵の功績を後世に伝えようと「平田篤胤佐藤信淵研究所」を設立。資料の収集や研究を続け、全国の研究者たちが注目しています。

秋田高校(1873年創立)の校歌にも、県民歌同様に「篤胤、深淵」がでてきます。これも3番の歌詞です。

「篤胤信淵(あつたね しんえん) ふたつの巨霊
生まれし秋田の 土こそ薫れ
先蹤(せんしょう)追ひつゝ 未来の望
ゆたかに健児は 其途進む」
(作詞・土井晩翠、作曲・梁田貞)

高校時代、信淵さんはともかく、篤胤さんはそれほど好きではありませんでした。

日本史の教科書などでは「篤胤は、仏教や儒教が伝来する以前の日本古来の精神に立ち返ろうという『復古神道』を唱えた」なんて記述がありました。

さらに、篤胤さんが唱えた「尊王論」は、「かつて皇国史観や軍国主義の強化に利用された」などとも教科書にあり、どうも「復古主義」「国粋主義」の人というイメージが…高校生のころは敬遠していたものです。ですから、3番は歌いたくなかったなぁ。

でも、数十年後、再び篤胤さんを調べるにつれ、見方が大きく変わってきました。まさに、レオナルド・ダ・ビンチみたいな人、生涯学習の先覚者だったんだ、今はそう思ってます。

次回は…篤胤さんの「知られざる」魅力について、さらにフカボリ!!