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【し~なチャン便り 第50話】まちなかフカボリ~千秋公園編④ 友情の証 舟形の手水鉢

千秋公園の中央、旧久保田城本丸にある「八幡秋田神社」。ここから少し石段を下りたところにあるのが茶室「宣庵(せんあん)」です。私のお気に入りの場所のひとつです。

「宣庵」は1953(昭和28)年、秋田市県都350周年記念事業として、県内茶人有識者の厚意により建設され、58年に同市に寄贈されました。落ち着いた風情のある茶室ですが、今回紹介したいのは茶室の庭にある「舟形手水鉢」です。

手水鉢というのは元来、「神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器」のこと。その後、茶の湯にも取り入れられ、茶庭に置かれるようになったといいます。

宣庵の舟形手水鉢は、茶庭にある池のほとりに置かれています。長さ約3m、重さ約10トン。この形状…とても手水鉢には思えません。

実はこれ、そもそもは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際、加藤清正が持ち帰って秀吉に献上したものだそうです。素材は「朝鮮半島から瀬戸内海方面に分布するものと同質の花崗岩」といわれていますから、なるほどと思わせます。

しかし…それがなぜ千秋公園にあるのか?

この謎には、秀吉の側近だった石田三成が大きくかかわっています。

巨大な手水鉢は大阪城にしばらく置かれていましたが、石田三成のはからいで当時、常陸国太田(いまの常陸太田市近辺)を治めていた佐竹家に移された、とされています。

秀吉の死後、豊臣政権は真っ二つに分断。文治(武力によらず、教化・法令などによって世を治めること)派だった三成は、武断派の武将たちに嫌われ、襲撃されるんです。石田三成襲撃事件です(1599年)が、そのときに佐竹義宣が三成の窮状を救ったことから2人の友情が生まれた、と伝わっています。

佐竹義宣は優れた茶人としても知られていました。その義宣のために三成は手水鉢を贈った…私はこの手水鉢が二人の友情の証だったと考えています。

手水鉢を贈ってしばらくした後、関ヶ原の戦い、つまり徳川家康と豊臣政権を引き継ぐ石田三成の「天下分け目の戦い」が起こります。その時、佐竹家は「中立」を保ちます。徳川家康からの強いプレッシャーはあったはずですが、特に義宣は三成と闘うことはできなかったのでしょう。

その結果、佐竹家は勝者・家康によって先祖伝来の常陸国から秋田へと転封。多くの土地・財産を手放しましたが、この手水鉢だけはあきらめきれず、海路はるばるこの地まで運ばせた、といいます。義宣にとって、この手水鉢はよほど大切なものだった、ということが分かります。

廃藩置県後、手水鉢は、いったんは秋田市土崎港の有力者宅に置かれたものの、その後秋田市が買い取り、縁故の地である千秋公園に戻ってきました。義宣がまつられる八幡秋田神社のすぐそばに手水鉢は置かれています。

石田三成、佐竹義宣…彼らが生きた時代ははるか昔。でも私は、この手水鉢を見るたびに、茶の湯を楽しみながら語り合う二人の姿が浮かんできます。