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【し~なチャン便り 第48話】まちなかフカボリ~千秋公園編②謎の防空壕

「まちなか フカボリ」千秋公園編の第2回も「戦争遺跡」にかかわる話題、「防空壕」のお話です。

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皆さん、「防空壕」って知っていますか?

「空襲のときに避難するため、地を掘ってつくった穴、構築物」のことです。

今の日本では少し現実感の薄い話ですが…

実は、秋田市の中心市街地にある「千秋公園」にも、かつて数多くの防空壕がつくられていたんです(写真は公園内、久保田城表門。昨年末撮影)。

昨年12月8日は「太平洋戦争開戦80年」、つまり「日本による真珠湾攻撃の日」から80年にあたる日でした。

秋田魁新報「くらし」欄(企画『戦禍の記憶』)の同日付紙面に、千秋公園の防空壕について語る90代女性の声が掲載されていました。

「(土崎)空襲が始まりました。東根小屋町(現秋田市中通)の寮から逃げようとしましたが真っ暗で、げた箱の靴が見つからず、片足ははだしのまま、千秋公園を目指して走りました。

でも、公園の防空壕は人がいっぱいで入れませんでした。当時は公園も畑になっていたので、畝と畝の間にあおむけになって、空を見ていました。アメリカは持っている爆弾を全部落としたんじゃないかと思うくらい次々と落ちてきて、すごい音でした」

太平洋戦争最後の空襲・土崎空襲。その際、多くの市民が千秋公園の防空壕に避難。この女性は「いっぱいで入れなかった」と証言しています。

資料などによれば、「東京はじめ各地でB29の空襲が相次いだ1944(昭和19)年、秋田市は「公共用」として大きな「横穴式防空壕」を千秋公園や金照寺山に求めた」とされます。千秋公園につくられた防空壕の高さは1.6m、幅3m、奥行きは10mから15mで、合わせて20カ所ほどあった、とか。

「昭和30年代、千秋公園で遊んだ」という、知人の越前谷潔さんに案内してもらいました。※越前谷さんは私のプラモデルの師匠です。「【第4話】1月28日 ああプラモデル~ 縮尺の世界」(https://plat-akita.jp/column/cnatyandayori20210216/)で紹介しています。

「現在、穴は埋め立てられて危険性はないんですが、当時の子どもたちの『冒険』の場にもなってました。肝試しや探偵ごっこです」と越前谷さん。※今は絶対できませんよ。

千秋公園入り口、「穴門の堀」沿いにいくつかの「痕跡」を発見。

越前谷さんは「秋田市役所は当時、公園と隣接していました。職員が退庁時には重要書類などをこの防空壕に運び、翌朝にそれを取り出して役所に運ぶ、という日課だったそうです」と説明してくれました(写真は穴門の堀)。

市役所は空襲の際、ターゲットになりやすい、との判断で、この防空壕が緊急「書庫」として使われていたんですね。

「実はね…」と越前谷さん。本丸の「故月池」付近(※旧動物園があったあたりです。後日、コラムで紹介します)には、地元の郷土部隊・陸軍歩兵第17連隊が使う馬、数頭を収容できる巨大な濠も存在したとか。そして「公園内に、軍隊が通り抜けられるような『トンネル』も掘られ、ひそかに園外へ移動するために使われた、という形跡も…」と話してくれました。

えっ、そんなものが…もし確認できればすごいスクープ。何だか燃えてきました。越前谷さんとともに調査を継続します!!