株式会社ALL-A

【し~なチャン便り 第32話】8月12日 日本最後の空襲「秋田・土崎」~なぜ?

今年は戦後76年。日本軍の真珠湾攻撃、太平洋戦争の開戦から見れば80年になります。

「土崎空襲」は太平洋戦争中、米軍による国内最後の大規模空襲の一つです。終戦前夜の1945年8月14日深夜から15日未明まで続いた、米軍B29約140機の空襲は日本のポツダム宣言受諾、つまり「降伏」直前に行われました。

日本有数の石油基地・日本石油秋田製油所を標的とした夜間攻撃でした。米軍機から約1万2千発の爆弾が投下され、同製油所は壊滅。市民や軍人ら250人以上が犠牲になりました。

「日本の降伏がもう少し早かったら空襲はなかった」━当時を知る人々は今もそう語り継いでいます。

「なぜ、日本最後の空襲が秋田だったのか」~それは、秋田魁新報記者時代から私がずっと取材し続けてきたテーマです。

この「土崎空襲」を、被爆者の体験談を中心とした語り継ぎや講話会、「戦争と空襲展」などで後世に継承するために活動するのが「土崎港被爆市民会議」(秋田市)。今回お話を聞いたのは同会議会長の伊藤紀久夫さん(81)、奥様の津紀子さん(80)=同市土崎港=です。津紀子さんは自身も4歳のときに土崎空襲を実体験した一人です。

自宅は、ターゲットとなった旧日本石油秋田製油所から1.6キロの場所。空襲が始まった同夜、最初は自宅近くの防空壕に入ったものの、祖母の機転で少し離れた「高清水の丘」へ逃げて助かったといいます。翌朝、自宅に戻ると地面には大きな穴が開き、家は消滅。幸い、家族は無事でしたが、近所では多くの人が亡くなった、といいます。

「もし、自宅に留まっていたらどうなっていたか…空襲の記憶は今も鮮明に持ち続けています。私たちが語り継いでいかなければ、あの空襲の記憶は薄れていく、という危機感も同時に持っています」と津紀子さん。

現在、紀久夫さんが会長を務める同会議が設立されたのは1975(昭和50)年。

「終戦直後、個人や家族など身内だけで慰霊を行っていましたが、終戦30年にあたるこの年、土崎の町全体を対象にした慰霊祭が開催されました。これをきっかけに、亡くなった方々の慰霊と空襲に関する記録を後世に伝えることを目的に会議が発足したんです」(紀久夫さん)

慰霊祭は「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」として空襲のあった8月14日に毎年開催。1997(平成9)年からは、祈念式典の後に、地域の小・中学生による「21世紀子供たちから 平和のメッセージ発表会」を行っています。

2人をはじめ同会員らが常に思っているのは「今後、戦争をどう語り継いでいくか」ということ。戦後76年。戦争を知らない世代が国民の9割近くにもなっている今、「あの日の出来事をどう若い世代に語り継いでいくか、難しさを感じている」といいます。

「いつか直接の経験者はいなくなってしまうでしょう。でも、当時の証言は証言集の中に残っているし、貴重な資料、戦争の遺跡、モノが残っている。これらに接することで『戦争』を自分のこととしてリアルに感じてもらえるのではないか。こうした形で、語り継いでいくことができれば、私たちの記憶をつないでいくことができる。そう思います」と2人。

土崎空襲の8時間前、当時の同盟通信社(東京、45年10月に解散)は、米国や太平洋の米国占領下の島に向けて英文の緊急速報を流しています。「速報! 速報! ポツダム宣言受諾の詔書、間もなく公表へ」。それは「日本が降伏する」という重要なメッセージでした。

「日本降伏へ」というニュースはすぐに世界中へ。速報はAP、UPを通じても米国内のメディアに伝えられます。ワシントンの地元夕刊紙イブニングスターは14日付最終面で、「ホワイトハウスの前で日本降伏の発表を待つ市民」の様子を捉えた大写真を掲載。B29が秋田に向けて出撃する前に、戦争の終わりが近いことを告げるニュースは米国内で広まっていたんです。

土崎空襲の任務を受けたのは、グアム基地に駐留する「第20空軍第315爆撃団」。同盟速報が流れる直前、B29全機のエンジンは既に始動し、土崎に向けて飛び立つばかりでした。そこに伝わった速報。各機はエンジンを停止します。司令部で対応について協議するために…。記録によれば搭乗員らは「もう出撃はない」という認識だったことが分かります。しかし、B29は1時間ほど待機しただけで再び出撃。なぜ速報は無視されたのか…

土崎空襲の1週間前。8月6日、広島に原爆が投下された直後、旧ソ連が対日参戦し、旧満州(中国東北部)、朝鮮、千島列島に進攻していました。北海道や北東北にも軍を進めようとしていた当時のソ連軍にとって、当時の日本で有数の石油産出地であり、製油所が残った秋田・土崎は軍事上の要所だったと考えられます。

日ソ中立条約を無視して侵攻するソ連軍の動きは、9日に米軍が2発目の原爆を長崎に落としても止まりません。「何とかしてソ連を止めなければならない」「戦後、ソ連が影響力を増大する前に戦争を終結しなければならない」━米政府にはそんな焦りがあったのではないでしょうか。

土崎空襲を行った同爆撃団通信士のジム・スミスさん(故人)は戦後、出版した手記(『ラスト・ミッション』)の中で「米国は、『秋田』をソ連に渡したくなかったのではないか」と推察。「ソ連がさらに介入を強め、”いくらかの戦利品”を要求する前に戦争を終わらせたかった」と記しています。

戦後の世界覇権を巡って対立する米ソ両大国の駆け引きの渦中に「土崎空襲」があったことが、これまでの取材から見えてきました。今後も取材を続け、私なりに次世代に伝えていきたいとあらためて思いました。

※8月22日、秋田市土崎の土崎みなと歴史伝承館で、「土崎空襲を伝える『講演会&上映会』」が開催されます。この中で、秋田ケーブルテレビ制作「アップルは届かず~日本最後の空襲はなぜ行われたか」を上映します。「アップル」とは何か、なぜ「同盟速報」は無視されB29は再出撃したのか?

よろしかったらぜひご覧ください!!