前回(第24話 一ノ関史郎さん)に引き続き、今回も1964(昭和39)年東京五輪のお話です。
日本選手団はしんがり94番目の入場でした。
「世界中の秋晴れを、全部東京に持ってきたような素晴らしい秋日和でございます」。これは、テレビ実況を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーの名セリフです。
抜けるような青空の下、日の丸をイメージした「真っ赤なブレザーと白いスラックス」の選手たちがアップに…カラー映えする配色、美しかったろうなぁ。
実はこの大会、五輪史上初めての「カラー放送」でした。でも、残念なことに、ウチのテレビは白黒。巷に出始めていたカラーテレビは高価すぎて、庶民にはとても「手が届かない」存在。ですから、私たち家族は、画面を見ながら、各々の「カラー」を想像(妄想?)するしかありませんでした。
実際に開会式で行進した「時代の目撃者」~元五輪アスリートからお話しを聞くことができました。
「航空自衛隊の5機が真っ青な大空描いた、鮮やかな五輪マーク。聖火の最終ランナーが階段を駆け上がり、聖火台に点火したシーン。それらを見ながら胸に熱いものがこみ上げてきました。今、自分は五輪の現場にいるんだ、と」
そう語ってくれたのは東京五輪、次のメキシコ、そしてミュンヘンと3大会連続出場、しかも「すべて異なるボート種目」で代表━という県ボート協会会長伊藤次男さん(79)=旧大内町出身、秋田市住=上写真は開会式前の記念写真、後列左から4番目が伊藤さん。
「結局、メダルには届きませんでしたが、各大会に大切な思い出があります。多くの素晴らしい人たちと出会うことができました。22から30歳までの長い間、世界の第一線でボートができたことを幸せに思います」
ボートの強豪・本荘高で競技を始めた伊藤さんは、中央大4年のとき、1964年東京五輪の「エイト」メンバーに選ばれました。初めての五輪代表です。さらに大学卒業後は県庁入りし、社会人として68年メキシコ五輪の「シングルスカル」、72年ミュンヘン五輪の「ダブルスカル」に出場します。
「入学前、本荘高がボートの強豪校だとは知りませんでした。本荘高には『学級対抗』としてボート種目があり、ここで結果を出せたためでしょうか、『端艇(たんてい)部(ボート部)』から誘いを受けた。これがボートとの出合い、生涯をボートと過ごすことになったきっかけです」
ミュンヘン五輪を最後に、一線を退いた伊藤さんでしたが、この「引退」から約40年後の2009(平成21)年、現役時代に果たせなかった「世界でメダル獲得」の夢をかなえます。「世界マスターズレガッタ(オーストリア・ウィーン)」で、「65~69歳シングルスカル」メダルを手にしたんです。しかも「金」!!
初めは「長い間、競技から離れていたことへの不安」があり、レースに出ることを迷っていた、といいます。こうした中で、東京五輪当時のチームメートから背中を押され、伊藤さんは出場を決意します。
その後は週1~2回、秋田市の県スポーツ科学センターに通い、トレーニングを開始。秋田運河などでも水上練習に取り組みます。そして「金」。約80人が出場した日本勢で唯一のメダリストでした(下の写真はマスターズ・ボート会場で金メダルを受ける伊藤さん)。
「一つだけ現役時代から続けてきたことがあります。朝1時間早く起きること、自宅近くの公園などで体操したり、ストレッチをしたり。それが役立ったかも。マスターズ出場に背中を押してくれた仲間たちには感謝しています。『楽しむ』というスポーツの原点をあらためて教えてもらいました」
伊藤さんは「大潟漕艇(そうてい)場」(大潟村)の設営にかかわってきました。この場所は1984(昭和59)年、秋田県で開かれた全国高校総体「59インターハイ」のボート競技用に整備されたものです。
2020東京五輪で、大潟村がデンマークボート代表チームの受け入れ市町村(ホストタウン)になり、漕艇場が事前合宿の練習会場に決定。先日、村にチームのメンバーが入ったことがニュースになりましたね。
本番に向けて熱が入るチームメンバーたち、その練習を見守る伊藤さんは「あらためて素晴らしい漕艇場だと思う。日本代表の活躍はもちろんですが、メダル候補でもあるデンマークには思う存分に力を出してもらいたい。楽しみです」
ボート競技は要チェック。デンマークチーム、その活躍に注目です。