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【し~なチャン便り 第71話】「秋田犬」を知ろう!!~祝・ハチ公生誕100年

亡くなった飼い主を東京・渋谷駅周辺で待ち続けたという「忠犬ハチ公」は今年11月、生誕100年を迎えました。今回は「ハチ公生誕100年」をお祝いして、秋田犬をテーマに進めてみたい、と思います。
※アイキャッチ写真は「2019年5月、大館市の「秋田犬の里」オープンに合わせ、特別展示されたハチ公のはく製」

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ハチは1923(大正12)年11月、二井田村(現大館市)の村議会議員だった齋藤義一さん宅で生まれました(※写真は斎藤家の前にあるハチの像。斎藤家は、大館市出身で国連事務次長を務めた明石康さんの母親の実家です)。

大館市史などによると、

同年、旧東京帝大農学部の上野英三郎教授が「純血の秋田犬を飼ってみたい」と、当時秋田県庁に勤務していた大学の教え子の職員に相談。別の職員を介して、齋藤家で生まれた秋田犬を譲り受けたということです。上野教授はこの子犬を「ハチ」と名付けました。まだ「ハチ公」ではありません。

今でこそ有名な「秋田犬(あきたいぬ)」ですが、明治、大正時代は大舘犬、鹿角犬などと呼ばれていました。狩猟犬としてマタギが使っていたことから、地元ではマタギ犬としても知られています。

もともとこの地域は、江戸時代の佐竹西家が奨励したこともあり、「闘犬」が盛んな土地でした。明治期になると「より強く、より大きく」を掛け声に、マスチフ、シェパードといった洋犬や、土佐犬との交配が進んだ、とされます。

1929(昭和2)年5月、当時の大館町長・泉茂氏によって「秋田犬保存会」が設置されました。これは、闘犬化が盛んに行われたことで雑種化してきたため、優れた秋田犬を保存するために設置されたものです。同6年7月には、日本犬で最初の天然記念物に「秋田犬」が指定され、全国にその名前が知られるようになります。

さてハチのお話に戻ります。

たくさんいる秋田犬の中で、ハチはなぜみんなから注目されたのでしょうか?なんで「公」がついたのでしょうか?

主人だった上野氏が死去してから7年後、1932(昭和7)年10月4日のこと。この日の朝日新聞朝刊に「いとしや老犬物語―今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる7年間」という記事が掲載されました。

前年秋、満州事変が発生。 以後、 日本は「戦争」への道を進んでいきます。この空気の中で、ハチには「公」という敬称がつき、「忠君愛国」のシンボルとしてスポットが当たっていきます。当時、最も影響力の高かったメディア・新聞の見出しに「公」の字が多発されます。

人々の反響はすさまじいものでした。銅像建立にあたっては帝国の内外から多額の寄付金が寄せられ、戌年の1934年4月21日に挙行された除幕式には、紅白のリボンで飾られた老犬ハチも列席した、といいます。

写真は東京渋谷のハチ公

ちょうどこのころ、1937(昭和12)年4月、ヘレン・ケラーさんが来日します。「日本の障害者の福祉向上」を訴える講演会━という名目でしたが、実はもう一つ大きな目的は秋田犬に会うことでした。

欧米でも広く報道された「忠犬ハチ公」のエピソードを聞きおよんでいたケラーさんは渋谷の銅像を見た後で、すぐに秋田へ足を向けました。下の写真は同㋅14日、秋田市・県記念館で講演するヘレン・ケラーさん(左)=秋田魁新報社「読者とともに1世紀」より。

…そして現地で「秋田に来たからには、どうしても秋田犬を連れて帰りたい」と言いだします。困惑する同行者、さらに周辺の関係者たち…

「秋田犬が欲しい」。ケラーさんの願いを伝え聞いたのが、後に秋田犬保存会副会長を務めた故小笠原一郎氏(当時は秋田警察署巡査)。彼は飼い犬だった生後75日の「神風号」をケラーさんに譲ることを申し出ました。

いまや世界中で愛されている秋田犬ですが、神風号は日本から海外に渡った秋田犬第1号で、ケラーさんが譲り受けたことは米国でも当時、大きく報じられました。

こうして、ようやく渡米した「神風号」でしたが、在米2ヶ月ほどでジステンバーのため、息を引き取ってしまいます。愛犬を失ったケラーさんの悲しみはやがて秋田にも伝わります。

来日から2年後、再び小笠原氏が秋田犬を贈ることを決めます。「神風号」の兄犬「剣山号」です。剣山はそれから約6年のあいだケラーさんにとってかけがえのない存在となっていくんです。

このとき、日本とアメリカ、両国は戦争直前の最悪な関係にありました。しかし、日米市民の中では「神風、そして剣山」のストーリーが浸透していました。国と国の中は険悪でも、両国市民の間では温かなものが確かに伝わっていたはず。秋田犬は二つの国、市民をつなぐ小さな懸け橋、日米親善使節だったんですが…

「ハチ公」は結果的に、「忠君愛国」のプロパガンダとしてまつり上げられたカタチにはなりましたが、ハチと上野教授の関係は純粋で、多くの人にとって爽やかで温かなものだったと思います。それはケラーさんへと伝わり、新たな物語を生んだんです。