昔から時代劇が大好きでした。昭和の子供時代はチャンバラの日々。テレビ番組なら「隠密剣士」、「仮面の忍者 赤影」。漫画だったら少年サンデー「伊賀の影丸」の連載。これ…絶対に、見逃せない大切なモノでした。
上は、大好きだった子供のころのチャンバラのシーン。空き地の原っぱにはやはりお決まりの『土管』がありました。(画・西村)
少し成長してからは、時代(劇)小説にハマりました。それも「江戸」モノ。好きな作家は池波正太郎です。特に「江戸の料理」の描写がうまいですねぇ。
今年は、池波さんの生誕百年の年ということもあって、過去に買い込んでいた「鬼平犯科帳」や「剣客商売」、そして「仕掛人・藤枝梅安」を読み直しています。
毅然とした鬼平(中村吉右衛門、最高でした…)、粋な秋山小兵衛(あぁ名優、藤田まこと)。彼らサムライ生活も憧れますが、梅安(渋いなぁ、緒形拳)ら町人たちの暮らしも興味深い…
ということで、今回は「秋田の江戸時代~佐竹義宣(よしのぶ)のまちづくり」を”フカボリ”。
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江戸時代、秋田市は独特の町割(まちわり)が行われていました。
町割とは、「まちづくりの計画として、土地を区切ること」です。当時の秋田市は身分によって地域が明確に区分けされ、侍の住む「内町(うちまち)」、町人たちの「外町(とまち)」として、生活の場がはっきりと分けられていました。
市中心部を流れる「旭川」。江戸時代は「仁別川」と呼ばれていました。1604(慶長9)年、天下分け目の「関ケ原の戦い」のあと、秋田に転封(てんぽう。 国替え)された初代藩主・佐竹義宣は神明山(現在の千秋公園)に城を築こうとしますが、当時の仁別川はこの神明山の直下を流れていたんです。これじゃ、お城はできませんね。
そこで、義宣は川の流れを変える「堀替え」という大工事に着手。新しい川の東側を侍が住む「内町」、西側には町人が住む「外町」を配置しました。
まずは武家町・内町について、歴史を紐解いてみました。
内町は、侍や家臣が住む地域ですから、城の周辺に整備されました。現在の千秋久保田町にあたる「上中城町」「下中城町」は、藩を支えた重臣たちが屋敷を構えていました。
特に千秋公園(久保田城)の中土橋口、「あきた芸術劇場ミルハス」がある場所には家老・渋江氏邸。また、道路を挟んで向かい側の文化創造館(旧県立美術館)、秋田市立中央図書館明徳館の場所にも家老職梅津氏邸がありました。
「アイキャッチ画像」は、新しくなった県立美術館のカフェから撮影した「ミルハス」。この「ミルハス」の前、お堀端には、江戸時代からあったとされる、300年以上の歴史を持つ大きなケヤキが今も力強く根を張っています。
上の写真は、昭和初期?と思われるカラー写真です(油谷満夫さん提供)。千秋公園入口、向かって左側に見えるのは県記念館。穴門堀にはケヤキが映っていますね。
「東根小屋町」「西根小屋町」(現在の中通地区)は、「参勤交代ルート」にあたり、上級家臣の屋敷が並んでいました。この辺りはお城を守る重要な拠点で、各屋敷は土塁で囲まれ、防御が固められていた、といいます。
「土手谷地町」「仲谷地町」(同)には、佐竹一門がずらりと勢ぞろい。現在の秋田市のメーンストリート・広小路に面した東の方から佐竹北家(角館所領)、佐竹西家(大館所領)、佐竹南家(湯沢所領)の屋敷が建てられました。
内町の周辺には下級武士の屋敷が並びます。現在の楢山・手形・保戸野などの地域は、道が狭く、行き止まりも多くなっています。秋田だけではありませんが、城下町は「お城を守る防衛機能」を持っています。
敵が押し寄せて来たとき、お城までなかなかたどり着けないように道をわざと複雑にしてあるんです。少しでも敵の侵攻を遅らせ、守りを固める時間を稼ぐためでした。もちろん、最初に敵と対戦するのは平侍(ひらざむらい)たち。
…「せ(す)まじきものは、宮仕えじゃなァ」とは、歌舞伎『管原伝授手習鑑(寺子屋)』の源蔵のセリフですが、平侍としての「命を張った宮仕え」を想像すると、かなり厳しいものがあります。いくらチャンバラが好きだといっても、命懸けのホントっこのチャンバラは…
やはり町人がいいかなぁ。
ということで次回は、秋田の町人地・外町です。