東北三大祭りのひとつ、秋田市の「竿燈まつり」がいよいよ8月3日から6日の日程で開催されます。毎年、300本もの竿燈が登場。夜空を彩る黄金色の光、差し手たちの鮮やかな技、観客から「どっこいしょー、どっこいしょ」の掛け声。秋田の夏、全開!! 待ち遠しいですね。
すみません…実は一足早く、「竿燈」を味わってきました。それも私が”原点”とも思いこんでいる「外町(とまち。江戸時代、町人の街)」竿燈です。
七夕の翌日、7月8日夜。秋田市八橋の日吉(ひえ)八幡神社で開催されたのが「七夕祭」です。昨年迎えた勧請(かんじょう。神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)700年を祝うため、「外町」竿燈の妙技が奉納されたんです。
今回は「”七夕”の竿燈まつり」についてお伝えします。
まずは、ちょっと歴史をフカボリ。
日吉八幡神社は鎌倉時代の1322(元亨2)年、秋田市外旭川に創建したのが始まり、とされています。その後、初代藩主・佐竹義宣が命じて現在の八橋地区に遷宮(せんぐう。神殿を建て替える時、神霊を移すこと。遷座)。この神社は、現在の大町、川反、旭南(馬口労町など)の一帯、かつて「外町」と呼ばれた地域の鎮守とされ、古くから「八橋の山王さん」と親しまれてきました。
「七夕に竿燈」という組み合わせ。不思議に思われる方がおられるかもしれませんが、そもそも竿燈は、「陰暦の7月6日に行われたねぶり流し行事として行われた」といわれます。全国的に知られる「8月」の祭りではなかったんですよ。
1789(寛政元)年、津村淙庵(つむら・そうあん)の紀行文「雪の降る道」で、陰暦の7月6日に行われた「ねぶり流し」が紹介されています。「長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ」と、「竿燈の原型」とも思われる記述があるんです。
もう亡くなりましたが、私の母は外町である川反1丁目(現大町)の生まれで、「竿燈」のことを「七夕さん」と呼んでいました。確かに、竿燈の先端には御幣が飾られ、46個の提灯の一段目には「七夕」と書かれています。子供のころ、既に竿燈は8月に行われていたので、7月7日の「七夕」の文字が書かれているのが不思議でした。
(先端の提灯には「七夕」の文字)
「元々、藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、笹竹や合歓木に願い事を書いた短冊を飾り町を練り歩き、最後に川に流すものでした。それが、宝暦年間の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事に発展したものと言われています」と秋田市竿燈協会。確かに昔、旭川に短冊を流した記憶があります。いろいろ事情はあるでしょうが、また復活できればいいのになぁ…
さて、今回の一夜限りの「七夕”竿燈”まつり」について。
今回の「七夕祭」で特に印象的だったのは、外町の子供たちが初めて「小若」の竿燈を披露したこと。子供たちが手や腰、頭に竿を載せて操るその姿は、もう熟達の差し手。頼もしいです、次代の竿燈を支える存在です。
(上は、子供たちによる「小若」の演技)
もうひとつ、この夜のハイライトとして、秋田市のジャズダンサー、YOSHITAKAさんが登場。彼が神社の舞殿(まいでん)で披露したのは、「秋田の行事」というタイトルのダンス。秋田の伝統的な踊りとUKジャズダンスの高速ステップが融合したパフォーマンスは観客を魅了しました。
このYOSHITAKAさんのダンス「秋田の行事」には歴史的な背景があります。昭和の初め、秋田市の外町(大町)の豪商・平野政吉氏が日吉八幡神社に隣接して、美術館を建設する計画があったんです。その美術館には、藤田嗣治氏の作品が一堂に展示される予定でした。そして、平野氏の招きに応じて秋田市に滞在した藤田氏は、大壁画「秋田の行事」を描き上げました。しかし、その美術館の建設は戦争のために頓挫。現在、その大壁画は秋田市中通の新しい県立美術館に掲げられています。
YOSHITAKAさんが「秋田の行事」を披露したのは、藤田氏の「秋田の行事」に敬意を表すためです。平野氏と藤田氏の友情、「幻の美術館」。その歴史と文化を現代に蘇らせ、祭りを一層盛り上げてくれました。
(舞殿で披露されたYOSHITAKAさんのダンス)
「新たな伝統の創造」という言葉が脳裏に浮かびました。
星空の下、子供たちの小若が揺れ、熟練の指し手たちの竿燈の妙技が続きます。そして舞殿で行われた「秋田の行事」のダンス。一夜限りでしたが、この祭りが秋田市の新たな伝統となり、次の700年へと繋がっていってほしい━心からそう思いました。